密室殺人です
こんにちは。米沢穂積です。
無推敲無校正で一息入れます。
私は小説を書いてお金を貰っていますが、そのお金だけでは少々やりくりが難しいです。根が贅沢をする性質ではありませんのでさしあたって困ることはありませんが、蓄えも多少はないと不慮の事態に不安が残ります。
そんなわけで、普段の私は書店員をやっています。書店といいますのは、まあ図書館には及びませんが、知識の塊みたいなものですね。いまでは慣れましたが、勤め初めの頃は自分は一生を生きてもこの「島」(棚のひと並び分のことです)ひとつ分の知識も得られまいという無力感にたびたび襲われました。そんなときはお客様への応対もついついぞんざいになりがちで、いやまったく思い出すだに恥ずかしいことです。
私の勤める書店はいわゆる郊外型で床面積はそれなりにありますが、チェーン展開をしている企業だけあって作業のシステム化は進んでいます。入荷のある朝を除けば、店員は責任者を含めても二人か三人で充分まわっていくのです。まあ土日祝日は毎度盆暮れ正月みたいなものですが、平日の二時三時には店内見渡す限り人影なしとなることも少なくありません。そうなると、仕事中は私語を控えるのは当然ではあっても、ついつい口が滑らかになるのも仕方のないところでしょう。
今日も今日とてお客様はいらっしゃらず、手前から漫画週刊誌、スポーツ誌、男性向け雑誌、経済誌と並んでいる雑誌の島を漠然と眺めながら、私は書くべき小説について思いをめぐらしていました。そのまま十五分も経ったでしょうか、バックヤードから、返品作業をしていたはずの店長閣下がカウンターにお越しくださいました。控え畏まる私に店長閣下は気さくにこう仰られました。
「米沢君。君、ミステリーを書くんだったね」
胸に手を当て、頭を垂れたまま私は謹んで答えました。
「はっ。愚作ではありますが」
店長閣下の表情に、僅かに怒気が浮かんだように思え、私はより深く頭を下げました。閣下は硬い声で、
「米沢君。そういうことは言うべきではない。君の本は君の本であって君の本ではない。僕は昔、編集をしていたからわかるのだが、一冊の本が一人の客に渡るまでには実に多くの人々の手がかかっているのだ。君の一言は、君の本をお買い上げ下さり楽しんで下さったお客様各位に無礼であるのみならず、出版社、取次、そして我々小売をも侮辱しているのだよ」
なるほど店長閣下のお言葉は常に的を得ています。Get the targetです。そういえば当を射るといった間違いは聞きません。二の舞を踏むことはあっても二の足を舞うことはないようなものでしょう。私は自らの浅慮を深く反省し、言い直しました。
「申し訳ありません。はい店長閣下、私は世にも稀な傑作ミステリーを書いています」
「君は僕を馬鹿にしているのかね」
「滅相もございません閣下。ではどのように申し上げればよろしいでしょうか」
「フム。将来への可能性を込めて、未熟という言葉はどうかね」
「さすがは閣下。はい、未熟の身ではありますが、ミステリーを書かせていただいております」
「よろしい」
店長閣下は深く頷かれ、そしてこう続けられました。
「すると君は、当然のことだが推理はできるのだろうね?」
思ってもみなかったお言葉に、私はひどく困惑しました。ミステリーを書くことと推理をすることは、コーヒー豆を育てることとコーヒーを淹れることぐらい違います。その混乱ゆえに、私は普段であれば絶対にしないこと、そしてしてはならないことをしてしまいました。反論です。
「お言葉ですが店長閣下。ミステリーを書くからといって推理ができるわけではありません」
「しかし古来、ミステリー作家は探偵をやるものだ」
少なくない不快が、その声には含まれていました。しかし、もう引っ込みはつきません。
「店長閣下。畏れながらそれは、ミステリー作家であるという設定の探偵がいる、の誤りではないかと」
「ほう。君は、私が誤っているというのだね?」
店長閣下の目つきが鋭さを帯びます。私はそれで自分の失策に気がつきました。何とか取り戻せないか、と口を開きかけたときにはもう遅く、店長閣下の獅子吼が飛んでいました。
「販売員米沢、気をつけ!」
訓練により、気をつけの姿勢は我ながら様になったものです。
「Yes,sir!」
「エプロンが汚れている。腕立て十回!」
「Sir,Yes sir!」
腕立てをするときには、拝領のエプロンは当然外します。書店員たるもの、まず本を守り、次にエプロンを守り、その次に自らの命がくるのです。お客様のことに触れないのは、最優先が当然だからです。
私は元来スポーツマンという性質ではありませんが、書店員になってから腕立てだけは随分やったものです。
「販売員米沢、腕立て終わりました!」
「よろしい、五訓を言え」
五訓。それは書店員たるものの信条であり、精神の中核に据えて片時も揺るがせにしてはならないものです。五訓を口にするとあらば、気は自ずと引き締まり、態度にいささかの油断も許すまじと緊張が走るものです。
私は姿勢を整え視線をやや上方に向け、一つ大きく息を吸い、棚も震えよとばかりに大音声を張り上げました。
「書店員心得、その一ッ! 書は主にして、我は従である!
書店員心得、その二ッ! お客様は神様であるとは、当然に我はその信者であることを意味する!
書店員心得、その三ッ! 取次を敵と思うなかれ、出版社を仇と思うなかれ!
書店員心得、その四ッ! 本部命令は絶対であり、本部の任命した責任者の言もまた同じ!
書店員心得、その五ッ! 近隣にBook0ff開店の際は全書店員はあらゆる手段を以ってこれを排……」
「よろしい、エプロン着用!」
私が最後まで言わぬうちに、店長閣下は五訓の暗誦を止められました。至聖なる五訓の暗誦を止めるとは、と一瞬疑念が浮かびましたが、私はすぐに第四訓を思い出して自らの誤った考えを正しました。
私がエプロンを着用するのを待って、店長閣下は先ほどのお言葉をもう一度繰り返されました。
「それで米沢君。君は当然のことだが推理はできるのだろうね?」
私はもう間違いませんでした。
「はい閣下。未熟ではありますが、全力を以って勤めさせていただきます」
店長閣下は満足そうに頷かれました。
「実は米沢君。先日僕の友人が死んだのだ」
「お悔やみ申し上げます」
「なに、このところ往来もなかったからね。この歳になると、一年に一人ぐらいは見知った人間が死ぬものだ。それはいいのだが、どうもその状況が不可解なのだ。変死だったのだよ」
そして店長閣下は、不思議を語られたのです。
「彼はアパルトメントの一室で死んだのだ。外部との連絡口は、玄関、風呂の窓、換気扇、そして居間の窓の四箇所だった。私もその部屋には入ったことがある。遡れば旧華族の別邸で、世が世ならば財閥の主ともなったであろう男が人に言われぬ趣味を持ってしまい醜聞を恐れた一族が無理矢理に彼を蟄居させた館の成れの果てといういわくのあるアパルトメントではあるのだが、隠し通路や隠し部屋の類はないと断言しよう。そして、連絡口はすべて閉じられていた」
「密室だったのですね」
「その通りだ米沢君、それも完全な密室だ、気密というほどではないにしてもね。警察はその一事を持って他殺の可能性を排除し、遺書のなかったことから彼を病死と判断した。しかしね米沢君。僕にはどうしても彼が病死するとは思えんのだよ。彼が病死するなら、およそこの世に健康な人間はいないことになるだろう。
どうかね、密室の中の人間を殺すのは、できることなのかね」
私は、あだやいい加減なことを言わぬよう慎重に、しかし閣下をお待たせしないよう素早く考えを巡らせました。確かに私の「患者のエンドロール」「氷果」はミステリーではありますが、私自身は死体の一つも見たことがありません。ロジックということになれば、組む方は置くにしても解くことなど思いもよらないのです。しかし店長閣下直々のお言葉です。できる限りのことをするしかありません。いえ、成功することが義務なのです。
私は、胸に手を当て頭を垂れた姿勢で申し上げました。
「店長閣下。密室の中の人間を殺害することは、充分可能なことです。現実的な選択肢としては、何と申しましても罠が有力です」
店長閣下は顎を撫でておいででした。
「フム、罠。しかし彼の体には目立った傷はなかったというぞ。いかに警察といえど、損傷のある死体を病死にはするまい」
「ならば毒でしょう」
「毒でもなかった。毒でも、わかりそうなものだ」
私は困ってしまいました。
「まことにごもっともです。しかし、そうとなりますと、もう少し詳しく状況を伺いとうございます」
店長閣下は、私の無能にあきれ果てたのか、しばし私を見下しておいででした。しかし、実に寛大な処置と感謝すべきなのでしょう、閣下は私の希望を叶えてくださったのです。
「よかろう」
そして閣下は、記憶を辿るようにしばし目をつむられました。やがておもむろにそれを開くと、成された説明は滔々としたものでした。
「彼の部屋は六畳一間だ。押入れがついている。南側に窓がある。北側にキッチンへのドアがある。押入れはそのドアの脇だ。彼は東側の壁にもたれるように死んでいたのだ。
彼の部屋にあるものといえば、まずは机。冬になれば炬燵としても使えるものだ。そして、本棚。彼は本……日本図書普及協会に栄光あれ!……が好きだったのだ。本棚は東側の壁を六割まで占めていた。
畳まれた布団、その上に枕、座布団が一枚。それらの位置も必要かね」
「いえ閣下。現在のところ必要とは思われません」
「では次だ。テレビがあった。西側の壁に寄せて、だ。その隣にイージーハンガー。背広やカッターシャツが下げられていた。乱れはなかったそうだ。イージーハンガーの下のデッドスペースに、マイナスイオン発生器を据えていた。僕も知る友から贈られたものだ。
贈られたものといえば、東側の壁、本棚の脇にはミニコンポがあった。もっとも彼はあまり音楽を聴かなかったから……当グループでは音楽ギフト券でも書籍をお買い上げいただけます!……、それは埃をかぶっていたようだがね。そのさらに脇には、古新聞が積まれていた。
あとは、鞄が一つ。思えば彼の仕事は、実に、この鞄一つに収まるものだったのだなあ。中には、ファイルがいくつかとノートパソコン、そしてノートパソコンの付属品が入っていた」
「言葉を差し挟むことをお許しください、閣下」
「なんだね」
「死体発見のとき、その鞄は開いておりましたでしょうか、閉じておりましたでしょうか」
「それが重要なのかね」
「それが何にも増して重要です。嘘ですけど」
「閉じていたそうだ。それと腕立て十回」
「Sir,Yes sir!」
再びエプロンを脱いで床に這い蹲る私に視線も向けず、閣下は言葉を続けられます。
「机の上には、郵便受けからそのまま放り出したと思しき紙類が乱雑に散らばっていたそうだ。食べ物飲み物の類があったという話は聞かない」
腕立てを終え、私はエプロンを着用します。畏まる私に、閣下はお尋ねになりました。
「どうかね。思い当たるようなものはあったかね、彼に、死をもたらしたものが何か」
私は、薄く汗をかいていました。直立不動、パレード・レストのレジ業務から、一転腕立て伏せ十回を二セット行ったから。それもあったでしょう。ですが私は、既にこのとき、ある恐ろしい可能性に気がついていたのです。店長閣下はそれと知らず、実に恐ろしい単語を口にされたのです。それは神の叡智を悪魔の所業に用いるがごとき、おぞましい可能性でした。
以下は恐ろしさのあまり背景色で隠してあります。
真相を見切った方、優しい方、滅多なことでは怒らない方、十八歳以上またはそれに準ずる方のみ、反転でお進みください。
常に正しかるべき店長閣下のその友が、やはりこれも店長閣下の友を謀殺するなどということがありうるでしょうか。しかし五訓の第四訓は、本部の絶対正義をうたったものであり、店長閣下の正しさは本部から店長として任ぜられたところに由来するのです。常に正しい店長閣下とはいえ、店を出てしまえば、殺人の相を持つ禍々しい人間を友としてしまうようなことが、あるのかもしれません。
私は閣下に、こうと思われることをそのままお伝えしました。
「閣下。いまお伺いしたお話の中に、大変危険な凶器が含まれていたように思います。殺人は、その凶器が狡猾な罠となって行われたものと愚考いたします」
閣下は異常な興味を眼に表しながらも、極めて冷静に、顎で以って私に先を促されました。私は閣下の自制心に感服し、それを見習うべく努めて淡々と申し上げました。
「閣下におかれましては、電離という現象をご存知のことと思います。静電気で以って結ばれていた原子同士が、その静電気が奪われることによって離れてしまう現象です。この際、本来ありうべき数より電子を多く残した原子をマイナスイオン、少なく残した原子をプラスイオンと呼びます」
「フム。常識の範囲内だな」
「恐れ入ります。しかし閣下。もし、ある機械がマイナスイオンを無制限に発し続けると、どうなるでしょうか」
明敏な閣下は、それだけで私の考えなど見抜かれたようでした。
「米沢君。君はまさか?」
「空気中にマイナスイオンが増えるとなれば、足りなくなった電子はその機械に蓄積されるでしょう。つまり、その機械は無制限にプラスイオンを蓄積していきます。これを帯電と呼んだとしても、大きな誤りではないと存じます。
そして、プラスとマイナスの差はいずれ埋められなければいけません。閣下、『マイナスイオン発生器』が、その内にプラスイオンを蓄える能力を超えてマイナスイオンを発生させてしまったとき、不運にも閣下のご友人がその近くにいたのでしょう。
そうです。閣下のご友人は、マイナスイオン発生器からの放電に焼かれ、西側の壁に叩きつけられたのです!
『マイナスイオン発生器』。……聞こえのいい名をつけたものです。それは、『放電機』と同義ではありませんか。そのような恐ろしいものを友人に贈るとは、これを殺人と呼ばずして……」
そこまで申し上げて、私は口をつぐみました。閣下の表情に深い憂いを見た気がしたからです。
閣下は呟いておいででした。
「そうか。そうだったか。ウウム、森脇教授、何故あなたは……」
「森脇?」
私がそう口にしたことで、店長閣下は我に帰られたようでした。
「いやなんでもない。君は知らなくてもいいことだ。見事だったぞ、米沢君」
身に余る光栄に、私はただただ頭を下げるだけでした。
そこに、ガラスドアを押し開け、お客様がご来店し遊ばされました。私と店長閣下は一瞬の迷いもなく、笑顔でお客様を迎え奉ります。お客様が万が一にも煩わしい思いをし遊ばさないよう、押し付けがましくない程度に奏上します。
「いらっしゃいませ!」
閣下は小声で、私に言われました。
「米沢君。君、手を洗ってきたまえ。掌が汚れたろう。そんな手で本を扱い、お客様の御相手を仕るわけにはいかない」
店長閣下のお言葉は一々もっともです。私は命に従うべく、敬礼一つ残してバックヤードに駆け込むのでした。
さて何日で削除したくなるか私自身楽しみです。
(追記:削除したものを再掲載するあたり、私もなかなか鉄面皮です)